№2遺跡「池袋東貝塚」~地元の考古学者が見出だした、幻の貝塚
今回は、「池袋東貝塚」を紹介します。豊島区遺跡地図では、池袋本町三~四丁目の一角がその範囲とされていますが、げんざい正確な位置は不明となっています。都市化が進む豊島区にあって、失われゆく自然環境と同じく、遺跡もまたかつての面影を留めることは、ひじょうに難しいことと言えます。
さて、この貝塚の発見は、いまをさかのぼること120年余、実に明治時代後半のこととなります。近隣の氷川神社裏貝塚が、このころ著名な遺跡として学界の注目を集めたことは前回お話しした通りですが、この貝塚に魅せられ、訪れた研究者の一人にまいだ蒔田鎗次郎(そうじろう)という若き考古学者がいました。彼は現在の豊島区駒込一丁目に居を構えていた地元の研究者ですが、氷川神社裏貝塚へおもむく途中、偶然にも新たな貝塚を発見したものです。彼の報告によれば、貝層は当時の地表から深さ30cm前後で確認され、かなりの規模をもった貝塚であったようです。そこから、多数の縄文土器や石器が発見されました。
この貝塚は、鎗次郎によって「池袋東貝塚」と名づけられました。しかし、発見からまもなく、周辺の宅地化が進み、本格的な調査も行なわれないまま貝塚の姿は失われていきました。いまや貝塚の正確な位置は不明ですが、推定位置の周辺では今も縄文土器をはじめとした遺物が発見されますので、ここに縄文人の集落が存在していたことは間違いないでしょう。さらに、新しい発見もありました。2000年に豊島区教育委員会によって行なわれた発掘調査で、弥生時代後期の竪穴住居址が発見され、ここに弥生時代の集落が存在したことが明らかとなったのです。この遺跡周辺では、多少の断絶はあるにせよ、貝塚が築かれた縄文時代から、のちの弥生時代に至るまで、人々が連綿として生活を営んでいたわけです。
ところで、この蒔田鎗次郎、彼は池袋東貝塚の発見の後、考古学史上に大きな業績を残すことになるのですが、これはまた別の機会にお話しすることにしましょう。ただ、彼の名は豊島区の遺跡を語る上で、これからもたびたび登場することとなります。