学習院大学自然科学研究棟地点の発掘調査の様子。
南は神田川へ向けて急な崖になっています。
学習院大学周辺遺跡は目白一・二丁目に展開する、文字通り学習院大学のキャンパスを包み込む範囲に存在が推定される遺跡です。この遺跡の存在は、1905(明治38)年ごろ、学習院建設予定地付近の切り通しで縄文土器が発見されたことで明らかとなりました。発見者の鈴木辰造氏は「黒土と赤土との界目近き所」(原文ママ)より縄文土器を発見したものと、当時の専門誌『考古界』(現在の『考古学雑誌』)にその報告を寄せています。この縄文土器がどのようなものだったのか不明ですが、赤土が関東ローム層だとすると、あるいは縄文土器の中でも比較的古い時期のものであった可能性があります。ちなみに2000年に豊島区教育委員会が行なった発掘調査では、鈴木氏の発見地点と異なるものの、縄文早期の土器と包含層が確認されています。
鈴木氏の発見から間も無く学習院の建設が行なわれ、その後しばらく、この遺跡に関する記事はほとんど見当たりません。あるいは、この開発によって遺跡が失われたと思われましたが、のちに1980年、学習院大学考古会の広瀬雄一氏によって、学習院構内の建設現場で発見された黒曜石製の石器が紹介されました。ここで広瀬氏は、旧石器時代の遺跡が存在する可能性を述べています。
学習院大学周辺遺跡で旧石器時代の明らかな痕跡が発見されたのは、実に2008年、つい最近のことです。学習院大学自然科学研究棟の建設に伴う発掘調査によって、関東ローム(立川ローム層)の、およそ2万年前の土層から、石器とともに当時の人々が生活していた痕跡「礫群(焼けた礫の集中)」が発見されました。豊島区内では、旧石器時代の礫群や石器の発見は数少なく、学習院大学周辺遺跡にこうした貴重な遺跡が今も地中に埋もれているものと思われます。
(参考文献:鈴木辰造1905「学習院建設地附近より貝塚土器破片発見」『考古界』4-12・豊島区教育委員会2002『千登世橋T』・広瀬雄一1980「学習院大学構内採集の石器」考古学の世界1、学習院大学考古会)